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『富士登山への挑戦』 杉田文学17号より

昨日は、富士登山終了後に燃え尽きてしまったメンバーHさんを紹介しましたが、今日は、やはり一緒に登ったNさんのエッセイ(「杉田文学」17号に掲載予定)を紹介します。Nさん、トレーニング中から「登り終えた後」のことを心配していました。燃え尽きてしまうのではないかと・・・でも大丈夫だったみたいですね。

「若林幹人」は、Nさんのペンネームです。

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『富士山登山への挑戦』         

若葉 幹人

(1)トレーニング編

 二〇一三年九月九日、私は人生初の富士山登山に挑んだ。スペース杉田にメンバー登録して一番最初に自分の目標として決めたのが、「富士山を登頂する」ということであった。私は今年の初めまで某企業にサラリーマンとして働いており、入院を機に企業を退職した私は失意のまま生活を送っていた。スペース杉田に入り、富士山登山をするという話を聞いた時に、何か目標を決めれば、きっと自分自身前向きに生きることが出来るだろうと思い、決意をした。日本一の山を制するためには、それなりのトレーニングをする必要があると、K施設長から言われ、九月の登山に向けてのトレーニングが始まった。

 富士山登山に向けては、まず体重を落とすことから始めた。退院時の体重は72。体重を落とすことで、登山をする際に身を軽くすることで、体にかかる負荷を減らす目的があった。まずは富士山を登るにあたっては、歩く事に馴れなければならないので、ウォーキングプログラム、30kmのスーパーウォーキングには三回参加した。歩く事は場数を踏むことで長距離も平気になっていった。それと同時に食事面でも体重を落とすことを始めた。まず出来る限り野菜中心の食事に切り替えたのと、寒天ダイエットで徐々に体重を落としていった。こうして富士山登山直前には、目標の60には届かなかったものの、63まで減量し、スペース杉田に入所してから約10のダイエットに成功した。

 八月に入り、本格的に富士山登山を想定したトレーニングが始まった。新杉田駅裏の階段上り下り十分×四セットを行った。足がプルプルして歩くのがおぼつかない。それでもこのトレーニングは無事にこなした。しかし、私が躓いたのが、金沢文庫の称名寺の裏山二往復である。正直私は「たかが裏山、大丈夫、大丈夫!」と、余裕綽々でいた。しかし、登っていくうちに、一緒に登る二人のメンバーがヒョイヒョイと登っていく中、私は暑さと段差に参ってしまい、一往復後に早くもグロッキーになってしまった。「称名寺を嘗めていました」この一言しか出ないくらい、私にとって称名寺はキツイものであった。この称名寺での練習で「富士山は本当に大丈夫なのか…」と、私の中で不安材料として残った。さらに金沢文庫から横浜市民の公園を歩いて、鎌倉の天園から建長寺を経て、由比ヶ浜までのウォーキングで、失いかけていた自信を取り戻すほど歩けた。そして、富士山登山では夜の崖道を歩くということで、それを想定して、夜間訓練として、その天園の石段の十往復という訓練は思ったよりも楽にこなせた。

 そして、トレーニングのクライマックスは、丹沢登山である。この丹澤を制しなければ富士山には行かせてもらえない。八月二十六日、朝九時過ぎ登山を開始した。登山を始めてすぐに汗だくになり水分を想像以上に補給した。もうすぐ頂上だ…と思っても、まだ階段が続く。それの繰り返しで心が折れそうになっていった。丹沢の頂上に着いた時、私の中で自信が付いていたのに気付いた。これだけトレーニングを積んだんだから高山病の症状が出なければ大丈夫だろうと思った。天気は曇っていたのと、ガスが出ていたので頂上からの風景が見られなかったのが残念であったが、私の目標は丹沢の頂上ではなく、富士山の御来光と頂上である。その後富士山登山まで数日あったが、何時ものウォーキングや階段上り下りをして、本番に備えた。富士山に登れることを信じて…

(2)富士山登山編

 人生初の富士山登山は二〇一三年九月九日から翌十日までの日程で決行された。メンバーはスペース杉田当事者三名、スタッフ三名、ボランティアさん一名、地域活動支援センターひふみ職員一名の計八名。男女四名ずつのグループで登ることとなった。九月になるとほとんどの登山道が閉山する。私たちは吉田口五合目から頂上を目指し上ることになった。まずは高山病が出ているか否かの確認と、富士山の標高に馴れるために五合目で暫くプラプラ歩いて体を順応させることから始めた。そして午後五時半、一行は円陣を組んだ後、頂上目指して歩き始めた。私にとって今までの総決算、御来光を見ること、頂上を目指すこと、これを目標に今まで厳しいトレーニングをしてきた。「絶対に頂上に行くんだ」という思いで一歩一歩踏みしめて富士山を登っていった。最初はなだらかなくだり道、そして次第に急坂になっていく。登っては休憩をこまめにとり少しずつ登っていった。

 登るに連れて次第に暗くなっていく。そして六合目あたりからヘッドライトを付けて、長い夜間登山が本格的に始まった。九月になって登山客が少なくなったとはいえ、途中で登山渋滞が所々であった。暫くするといよいよ道が急な岩坂となった。当然ながら天園の岩山とは桁外れである。足が入る所を選びながら登っていくが、次第にロッククライミングのように、壁に近い崖をよじ登る形となり、富士山が険しい山であることを改めて感じた。休憩の際に富士山の夜空を見ると、夜空に星が綺麗にちりばめられており、これは御来光と同様に絶景で、崖登りで疲れていた私にとって癒しになった。金では買えない光景を見られて感激しながら、午後九時過ぎ、八合目の私たちの宿となる蓬莱館という山小屋に到着した。そこでは四〇〇円のカップヌードルを食べたが、普段地上で食べるものよりも遥かに旨かったと感じたのは、富士山で食べたからこそである。山小屋で写真を撮影し、午後十時過ぎ、私たちは寝袋で仮眠を取った。

 翌十日午前三時、外国人登山客のガタガタという音で寝たが寝ないかよく分からない中、私たちは起床して、登山の準備をした。午前四時、蓬莱館を出発して登山再開、頂上を目指して歩き始めた。外は強風、さらに天気はヒョウが降るとの予報であったことから、登山中に天気が崩れないか心配になったが、暫くは強風だけで何とか天気は持ってくれた。登山を再開してから、山小屋ごとに休憩を取る。私たちはもう雲の上まで来ており、私も高山病の症状も出ず、酸素が薄いということもなく、登山を続けていった。すると、段々と夜が明けてくる。そろそろ御来光が見られる。私たちはわくわくする気持ちを持ちながら、御来光が見えるのを待った。太陽が昇ってくるのがくっきり見える。徐々に登ってくる。そしてそれが横長の光と変わっていった。「御来光だ!」これを見るために厳しいトレーニングを積んで来た甲斐があった。皆で御来光を拝み、写真を撮った。私は昨夜の夜空以上の感激を覚えた。この病気になってから心から感激したことは今まで無かった。実際に話に聞いていた以上に綺麗な御来光を見られ、「生きてて良かった…」本気でそう思った。

 御来光を眺めてから、今度は頂上を目指して登山を再開した。急坂と岩山が立ちはだかったが、御来光を見た私は、「頂きを取る!」という思いだけで登山を続けた。歩け歩けと言い聞かせながら歩いていくと、鳥居が見えてきた。鳥居を三つ超えると頂上である。頂上が見える。見える頂上を目指すが、厳しい坂と岩はそう簡単に私を富士山の頂上に登らせてくれない。そんなに甘くはない。ただ、今までのトレーニングを積んで来たことを自信にして登っていく。鳥居を一つ越えると「あと二つ」、第二の鳥居を超えると「あと一つ」と言い聞かせながら、登りつづけていった。頂上に近づくにつれて、ガスで視界が悪くなっていった。それでも頂上を目指して登りつづけた。

 登山を始めて十四時間、午前七時過ぎ、三つ目の鳥居をくぐって、ようやく頂上に到達した。悲願の頂上である。標高三七七六mを登り切った。今までの事が走馬灯のように私の中をよぎった。失意の中で富士山登山を決意してからの事、病気になってから今迄のこと、登って良かった… そう思った。一緒に頑張ってきた二人がいたから登頂できた。見守ってくれたスタッフがいたから登れた。そして、私の無謀な挑戦を励ましてくれた家族や友人がいたから登れた。下山後、父から電話がかかって、「無事に登頂した」と話したら父は電話越しで号泣した。

 富士山登山の挑戦は頂上まで登れたことで終わった。

 来年の登山の話も出ているが、今は富士山を登れたことと御来光を見られたこともあり、暫くは余韻に浸っていたい。

 登山が終わって一週間、私のパソコンの壁紙は富士山の御来光の写真に変え、部屋には「富士山頂 三七七六m」のフラッグが自慢げに飾ってある。これを見る度に「生きてて良かった」と思う自分がいる。

二〇一三年九月十六日・記

2013091323050000

(富士山頂で 右がNさん)

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