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杉田文学第7号

杉田文学第7号が完成しました。今日は、体験通所中のKさん(46歳男性)の投稿をご紹介しましょう。

『楽しいよ、旅! まず一歩から』

歩くって、楽しいですね。最初に遠くまで歩いたのは高校生の時、歴史が好きで実家の横須賀を3時頃出発し鎌倉まで歩きました。早朝の鎌倉。町はとても静かで、八幡宮までまっすぐ続く「断蔓」の道、僕ひとりで歩く贅沢な感覚。八幡宮の一番上の石段に座り込み、しばらく町を眺めているとカランコロンという木靴の音、装束をまとった神官が僕の前を通り過ぎた。まるで鎌倉時代に迷い込んだよう。これまで何度も来ていた鎌倉とはまったく違う雰囲気に包まれた。歩かなければ得られない感覚に引き込まれた。

大学生(20才)の時、ゼミの研修を八ヶ岳山麓(長野県)にある富士見高原で行うことになった。現地集合と決まった時、「僕は歩いて行きます」と手を挙げた。どうしても、歩きたかった。歩かないと「僕」では無いという思いが強かった。どうしてだったのか。そして「自分」探しの旅は始まった。

9月の初め横須賀を出発し、1泊目は大和へ。人のにぎやかな所が安心だと駅近くの公園のベンチで寝ることにしたが、初めての経験で緊張し、人の足音が気になり眠られなかった。しかたなく朝早くまだ暗いうちから次の予定地の相模湖へと向かった。

まだ平地は残暑厳しかったが、さすがに山々が近くなると秋の気配で寒い。寝袋は使わないだろうと持っていかなかった。1枚のトレーナーでも持ってくればと後悔した。湖畔に並ぶベンチではカップルが静かな時を刻んでいた。1つのベンチを陣取り仰向けになると、夜空には星々がきらめいていた。湖の微かな波の音が僕を眠りに誘った。安心して眠れた。僕だけのレイクサイドホテル。

 道志村、いよいよ山梨県だ。昔から道志七里と言われ東西に長く延びた村。足取りは良好。これまで国道はアスファルトで覆われ歩道もあると思っていたが、そんな常識はどっかに行ってしまった。舗装されていない車1台がやっと通れるほどの土の道。その村を象徴していた。民宿を探し一軒の民家へ向かうと、畑作業をしていたおばさんが僕を見て後を追って来た。「泊まりたいのですが」と言うと、「どうぞ、寄ってきな」と気さくに玄関に案内にしてくれた。その手には採れたてのトウモロコシが握られていた。甘くて美味しかった。

 翌朝、おばさんからこの先の道を曲がると少しだけ富士山が顔をだすよと言われ、僕を家族で見送ってくれた。しばらく山間の道を歩いていたため姿を見せなかった富士山が、一瞬顔を出してくれた。

道志村から次の目的地の富士吉田までは急な峠を越えなければならなかった。途中、自転車のハンドルを手で握り、息を切らせて前へ押し進む若い男性とすれちがった。やっぱり歩くのがいいなと思いながら、僕は先を急ぎ峠を目指した。峠で小休止。前には山中湖の向こうに富士山が堂々と待ち構えていた。「いよいよだな。」これまでの旅の指標が富士山だったからであろう。何だか緊張が湧き上がってきた。山中湖までは真っ直ぐに坂を下ればいい。足が軽やかになった。その僕の横を自転車が颯爽と下って行った。

富士吉田市は江戸時代から富士講の宿で賑わった町で、その景観は今にも残されていた。さっそく寝場所を探して歩き回った。ちょうど公民館の入り口の奥が風よけになりそうだ。それから寒さ対策の段ボールの調達を急いだ。思っていたより小さな町だった。段ボールはスーパーや薬局のものが良いのだが、あいにく店の外には無く、しかたなく八百屋から大きめのものを集め、そして土臭い段ボールに包まって一夜を過ごした。

朝早く起き、次の予定地の本栖湖へと向かった。有名な観光地だから、何とかなるだろうと思っていたが、みごとに期待は裏切られた。店らしきものは無く、湖水から冷気が吹き上げてきてとても寒かった。夕刻は早かった。夜通し歩こうと足を進めたが、歩道が途切れた。電灯も無くなった。周りには樹海が広がっていた。暗黒の闇にたたずむ僕。引き返した。近くに自販機が並んで静かな光を放っていた。蛾が光に集まるように僕も誘われた。触ってみたが、暖かくはなかった。自販機から離れたところにひっそり古びたレストランがあった。階段下の陰が風よけになった。猿子座りで夜が明けるのを待った。

 翌朝、富士山が後ろに見えた。ずいぶん歩いたな、自分ながらに思った。深呼吸をした。本栖湖から下部町までは九十九折の道でいっきょに下った。民家の庭になにげなく咲いていたコスモスがとてもきれいだった。下部温泉は山間の静かな温泉街で、民宿に4泊した。夜、スナックに入るとママさんに「若いのにどこか身体が悪いのかい」と聞かれた。「皆、身体の具合が良くない人が来るもんだから」と話してくれた。「関西ヌード」の看板があって寄ってみたが、もうやっていなかった。お土産屋さんの店頭のスポーツ新聞が、夏目雅子がガンで亡くなったことを報じていた。

途中、身延山に歩いて登った。参道の道には、「南無妙法蓮華経」と書かれた小さな幟が土にさしてあった。頂上の奥の院で、夏目雅子の死を悼んで手を合わせた。

 下部温泉を北上すれば平らな甲府盆地。甲府、韮崎と歩いた。韮崎では雨が降ってきた。親切な駅長が鍵を閉めるけど、中の椅子に寝転んで泊まっても構わないと声を掛けてくれた。何とかステーションホテルに泊まることが出来た。

もうすぐ県境、そして富士見町へと入った。振り向くと確かに富士山が遠くに眺められた。4~5人の小学生が「あ~、かっこいい~」とランドセルを揺らして駆け寄って来た。「何してるの?」と聞くので、「旅しているんだ」と答えた。子供たちに、「何でこの町が富士見町っていうか知ってる?」と聞いてみた。「わからな~い」という返事。「みんなに、あっちを眺めてごらん」というと、みんな「ほんとうだ!」と声を合わせた。

富士見町に着いた。駅前の弁当屋に、夏目雅子が生ビールを飲んでいるポスターが貼ってあった。亡くなったことが嘘のように思えた。駅長さんが外で寝ていては寒いからと、中に入っていいよと誘ってくれた。

さあ、あとは富士見高原へと向かうだけだ。足取りは軽やかだった。

歩くのが好きで、これまで機会があれば歩いた。長距離では、翌年の新潟、佐渡、そして日本海に沿って寺泊、出雲崎、柏崎まで。地方に行くと暇があれば、歩いた。楽しくて、いろいろと人生の勉強になった。よく歩いたのは20才台の頃、今は病気のこともあり、しばらく歩いていない。いつの間にか46才。「スペース杉田」と出会った。何か「挑戦」したい。

よろしくお願いします。

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