『杉田だより』アーカイブ ①
『父のスライダー』(2008年2月発行 第18号より) 3B
私が野球を始めたのは小学校1年の時である。本格的にクラブチームに入部したのは小学生3年の時である。最初に所属したのは;;;と云うチームである。私の野球歴はセカンドベースマンから始まった。4年生でレギュラーになった。父がコーチだった。父が解任されると、×××と云うチームに移籍した。このチームでは補欠だった。だが、このチームで私は野球のABCを覚えた。やがて、5年生になると、父が監督をする×××に入部した。1番サードを務めた。6年生になるとショートにコンバートされ、2番でキャプテンに指名された。硬式で市大会優勝。硬式で市大会3位となり、横浜市の選抜選手となった。25名しか選抜されなかった。私の人生の中で最も誇りとしていることである。また、×××リトルシニアリーグに補強選手として、試合に出場した。
中学に進学した。シニアに行くか、中学野球部に入るか迷った。××時代の友人に、誘われたので中学の部に入った。2年生の時から1番三塁のレギュラーポジションをつかん
だ。高校進学となると、どうしても入りたい高校があったので、2年の3学期に退部した。一応×××リトルシニアに籍は置いていたが、将来弁護士になりたかったので勉学に励んだ。高校は古豪と云われる学校だったが、野球部には入部しなかった。
高校時代は、勉強した。国立、中央大、慶大の法学部を目指した。しかし一冊の本が私の志望を変えた。バートランド・ラッセルの「What is Democrocy」という本である。政治に興味を持つようになった。英国の政治に惹かれた。現役の時は、共通一次に失敗。私立も不合格。浪人になった。その時発病した。入試の一カ月前に入院。2浪となった。けれども、志望校に入れなかった。教師になりたかった。しかし、在学中に再発。教師免許は、取れなかった。一年休学。それでも復学できず、一年留年。合計6年で卒業。バイトの関係から、海運にひかれた。しかし、海運会社には入社できなかった。倉庫会社に入社。半年で退社。次に電気メーカーの資材課海外資材係に入社。しかし、リストラされた。もう会社に勤めるのは厭になった。27才になっていた。公務員を受験。失敗。友人に勧められて、行政書士を目指した。5回失敗。34才になった。再入院。そして、デイ・ケアに通うようになった。そこで良いケース・ワーカーに出会った。メンバーは皆高学歴で話も合った。ソフトボール部の主将に指名された。本当に楽しい3年間だった。
主治医が生活教室、作業所へ行くように指示した。そして現在に至る。もう8年も入院している。これからどうなるかわからない。
父は大学まで野球をやった。投手だった。父とは良くキャッチボールをした。 父のスライダーは切れが良く、取れなかった。
何年か振りに父と再会した。相変わらず、若作りで派手だった。69才にしては若くみえた。けれども、もうスライダーは投げられないと思った。あの鋭いスライダーの記憶は今でも決して消えることはない。
(『杉田だより』・・・2005年~2008年 19号まで発行)
| 固定リンク
「プログラム活動」カテゴリの記事
- 8/28音楽鑑賞会(2024.08.28)
- 7/29音楽鑑賞会プレイリスト(2024.07.29)
- 7/9音楽鑑賞会プレイリスト(2024.07.09)
- 6/27音楽鑑賞会プレイリスト(2024.06.27)
- 引っ越し講座(2024.06.19)
最近のコメント